My History

1960年12月4日横浜に生まれる。出生後すぐに、母方の祖父母のもとに預けら れた。
両親は共働きで、電電公社の宿舎に住んでいた。母親は長女で、妹2人、弟2人がい た。 平日は祖父母の家で過ごし、週末は父母のところへ行くという生活が小学校6年生ま で続くことになる。祖父母の家には叔父2人がいたと記憶している。

両親はけんかが絶えず、なぐりあいはしょっちゅうであった。ものを投げていること もあった。祖母の家に戻ると、「パパとママがけんかした。」と言って泣いたそうで ある。

私はいろいろな面で発達が遅れていたと、聞いているが記憶にない。たとえば、後ろ で音をさせてもふりむかなかったり、てぬぐいを頭からかぶせてもそのままで、とり はらおうとしなかったり。(母親談)

祖父母には大変可愛がられた。初孫であったためもあるだろう。両親には可愛がられ たという記憶は全くない。たくさん、高価なおもちゃを買ってもらったりはしたが。
祖父母の家は木造の一戸建てで、広い玄関と、ベランダがあった。玄関をあがるとす ぐ廊下で、8畳間、6畳間、4畳半、台所、風呂場があった。そのほか、物置が別棟 であり、古いものはそちらにしまわれていた。
私は、6畳間に祖母と一緒に寝起きしていた。祖父は8畳間、下の叔父は4畳半を 使っていた。上の叔父がどの部屋を使ってたか思い出せない。仕事で海外に行くこと が多く、あまり家にいなかったのかもしれない。
私は好き嫌いが多く、おかずは鮭やたらこばかり食べていた。そのせいか、便秘がひ どかった。



4歳になると、母親から、幼稚園に行きたいかと尋ねられ、深く考えずに行きたいと 答えた。中学高校の男子校の付属の私立のキリスト教系の幼稚園を母親が選び、そこ に通うことになった。そこは、子供の足で、15分以上かかる距離にあった。
入園には簡単な試験があって、すごく緊張した。筆記では、大きな○とぼう3本を描 かせられた。そのあと、質問を受け、朝何を食べてきたか聞かれたらしい。これは憶 えていないので、母親から聞いたのだが、「しゃけとたらこ」と答えたそうだ。実際 は何も食べて行かなかったというのに。それが終わると、制服を見せられた。

この幼稚園に2年間、祖母に送り迎えしてもらいながら、通った。そして、2年間あ る男の子にいじめられ続けた。どんないじめを受けたのか、さっぱり記憶にないが、 いじめられたということだけは今でも憶えている。

ひとつだけ覚えているのは、いじめられて泣いている私を先生が叱ったことだ。「慧 眠ちゃんはどうしていつも泣いてばかりいるの?!」とても悲しかった。

幼稚園では緊張しっぱなしであった。
授業中は先生に言われたことをやってればいい ので、まだよかったが、自由時間になると、どうしていいか全くわからなかった。広 い遊戯室で、他の子供たちは自由に遊びまわっていたが、私は太い柱にへばりつい て、まわりをながめているだけだった。どうしたら、みんなの中に入れるのかがわか らなかったのだ。
たまに、ちょっかい出してくる女の子がいて、追いかけっこのよう なことをしたが、走るのが遅いのでいつも追いつかなくてあきらめてへたっていた。



2年目のあるときのことだ。ある日、幼稚園に行くと、教室にクラスのみんなの作品 が飾ってあった。ところが、私の作品だけないのだ。その作業をした日に病気か何か で休んでしまったのだと思う。私はパニックになった。
家に帰ってからも、心配で不安で頭からそのことが離れなかった。ふとんに入ってからもやな気持ちでいっぱいで眠れなかった。
そして、とうとう吐いてしまった。祖母が心配して何があったのか話 すように言ってくれた。たどたどしく説明すると、祖母は、「明日、しおき先生(実 際は日置先生という名前だったが祖母は“ひ”と言えなかった)に言って、やらして もらいなさい」と言った。それを聞いてどんなに救われたことか。私はまだ不安だっ たが、眠ることができた。

翌日、先生がオルガンを弾いているときに、恐る恐る作品を作らせてほしいと頼ん だ。先生は材料をもってきてくれて、私は自分の席にそれを持っていたが、それだけ でも、大変な思いだった。隣の席はいじめっこの男の子だったので、怖かったのだ。 邪魔されるかと思ったが、「何やってるんだよ」と言われただけで、何もされずに済 んだ。
しかし、詳しいやり方を誰にも教えてもらえなかったので、みんなの様なりっぱな作 品に仕上げることはできなかった。画用紙にシールを貼り、クレヨンで絵を描くらし かったが、よくわからないので、シールを貼って終わりにした。とにかく、それらし き物はできたので、先生に飾ってもらい、やっとほっとすることができた。
今思えば、大したことではないのだが、そのころの私にとっては重大なできごとで あった。



幼稚園でも友達はあまりというか、全くいなかったが、しょうこちゃんという女の子 がとても好きだった。友達にはなってくれなかったが、かわいくて、性格がよく、育 ちの良さの感じられる子だった。
幼稚園で掃除当番のようなものがあり、2人一組で 順番に机を拭かなければならなかった。私と組んだのがしょうこちゃんだったのだ。 しょうこちゃんと一緒にぞうきんがけができてとてもうれしかった。
不安で眠れない 夜も、しょうこちゃんのことを思い出すとこ心が落ち着いた。
しょうこちゃんは私立 のお嬢様学校に進学し、私は地元の公立小学校に進んだので、卒園してからは会うこ とはなかった。





6歳になって、私は小学校に入学した。いじめっこの男の子も同じ学校に入ったが、 別のクラスになり、一安心であった。1年と2年のときはクラス替えもなく、の担任 は国語の男の先生で、私を可愛がってくれた。

しかし、相変わらず学校でも緊張しっぱなしであった。先生が、初めての国語の時間 に、書き取りをやらせたが、「段落を変えて」と言われて、ノートのページを一生懸 命めくって、ページを変えてしまったりした。

小学校のお昼休みも苦痛だった。誰かと一緒に校庭に出なくてはならないのだが、一 緒に出てくれる子が見つからなくて、困っていた。何をしてすごせばいいのかわから なかった。

2年生のとき、隣の席に性格のきつい、キッコちゃんという子が座っていた。悪気は ないらしかったが、すぐにわたしのほっぺたをつねるのだった。ほっぺたに赤いあと ができていた。
家に帰ると、祖父に問いただされ、そのことをしゃべると、すぐ学校 に一緒に行くことになった。祖父と私は菓子折りを持って、担任の先生に会いに行っ た。なぜか、怖くてたまらなかった。
翌日のあさ、席替えをすることになり、キッコ ちゃんから離れることができた。

しかし、ほっぺたの赤いあとはもともとあったものかも知れなかった。小さいころか ら、口の中を噛む癖があったのだ。そのせいかも知れない。





3年生になり、クラス替えで、またもや幼稚園のときのいじめっこが同じクラスに なってしまった。ほかにもいじめる男の子たちが何人か同じクラスになった。卒業ま でクラスは変わらなかった。そしていじめられ続けた。

仲のよい友達もいたが、今では音信普通である。

ある冬の日に、私は、セルロイドのぴらぴらした飾りのついた帽子をかぶっていた。
学校の帰りに友達と、その友達と一緒になった。なぜか、誰かが私の帽子をとってし まい、ほかの子たちと投げあいをして、返してくれなかった。
わたしは悔しくて、も ういい、と思い、家に帰ってしまった。

本当はどうすればよかったのか、いまだにわ からない。泣いた方がよかったのだろうか。

帽子をどこにやったのか、祖母に聞かれて、取られたことをいった。
母親にすぐに話 が伝わり、友達の家に押しかけることになった。
私はいやでたまらなかった。
母親が きつく話をし、帽子を弁償してもらうことになった。
友達の母親といっしょに、帽子 を買いにいき、2個も買ってもらってしまった。
後味が悪かった。





高学年のころ、図工の時間に紙粘土で花瓶を作った。みんなの作品は、教室の後ろの ロッカーの上に展示された。
休み時間に男の子たちがテニスボールでキャッチボール をしていたが、だんだん、私にぶつけてくるようになった。私は、悔しいので、投げ られたボールをめちゃくちゃに投げ返した。
ところが、運悪く、いじめっこの一人の 花瓶にあたってしまい、花瓶は砕けてしまった。

私はみんなの前で自分の花瓶を壊せ と命令され、そのとおりにした。担任の先生は若い女の先生で、私のことを嫌ってい るようだった。
まったく私の言い分は聞いてもらえる機会もなかった。

このころは、実家に行くのがいやで、行かない週もあった。両親は不便な田舎に家を 建てていた。いつ、いっしょに住むのかと両親に聞かれて、中学になったらと適当に 答えていた。中学がまだ遠い未来のような気がしていたのだった。